神道の未来を考える暇人ブログ

神社の未来を考える専門家(素人)

神社本庁不要論概説

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永きに亘って神社本庁は、神社界の発展に貢献してきた。特に戦後復興時代期に於けるその成果、恩恵は大きく、未来まで語り継がれるべきである。神職養成に関しても有用の人材を多く斯界に送り出してきた事実は認めぬ者がいないであろう。

しかしながら、本庁は既にその役目を終えており、もはや不要となった。誠に残念ながら、社会的に不要となったのである。小生がなぜ、そう考えるか少し長くなるが下に記そう。

 本庁が不要になった最も大きな要因は、神社を取り巻く社会環境が一昔前とは比べものにならぬ程、大きく変わったからである。現任の神職であれば、誰しもその異変、違和感を感じている事であろう。特に高齢の神職は強く感じているかもしれない。少なくとも私は、昔とは何もかもが違う、そう小さく呟く浄階神職をこの目で何人も見たのだ。

 かつて神社本庁から発せられた「有難いお言葉」は金科玉条の如く扱われた。それを社頭に高々と掲げ、喧伝しておれば良かった。それで教化は終わり。皆がその言葉を信じ、そして縋った。

 復興期に於ける神社界にとって、また神社本庁にとって最も美しい時代であったといえる。その時、そんな美しい時代が終わると考える者は1人もいなかった。しかし、残酷にも時代は変わったのだ。

 では、どのように変わったのか。小生の私見を簡潔に述べよう。復興を果たした我が国は、凄まじい速さで全国的に都市化した。ここでいう都市化とは、高層ビルの建設や区画整理などの物質的現象ではなく、生活構造を基盤とする形而上学上の都市化である。

 その急速な都市化により個人が個の殻に閉じこもっていても、完結しているように見える世界が出来てしまったのだ。即ち、個人が各々に持っていた共同体への帰属という共通認識、言い換えれば、同じ価値観や記憶を共有している人達が大多数居る、という教化の前提を失ってしまったのである。

 教化の前提を失った現代では、お上の声が市井まで届かず、従前のような意味を持たなくなったのだ。にも関わらず、未だに斯界の「優等生」神主は律儀にも本庁の一挙手一投足に注意を払い、「有難く万能なお言葉」を頂戴しようと考えている。

 なぜ、このような矛盾が今日まで罷り通っているのか。その答えは、我々自身の胸に聞けば直ぐに分かるであろう。それは、神職自身の人間力が乏しく、発信や教化が出来るほどの思想を持ち得ていないからである。

 こういう事を言えば、必ず反論が出る。いや、私には確固たる思想乃至教学がある、皇室についても、神典についても、或いは領土問題についても考えがあるのだと。しかし、ここで反論した勉強熱心な「優等生」神主は一度冷静になり、立ち止まって考えて欲しい。

 我々の手中にある思想は本当に社務の中で、或いは生活の中で培われた思想、教学であろうか。はるか昔、大学の講義や研修会で朝から晩まで叩き込まれたことではなかろうか。或いは、『神社新報』や『正論』、『日本の息吹』等に掲載されていた保守論客の記事を脳内にコピーしたものではなかろうか。

 ここまで記せば、多くの神職は自己の活動を反芻し、口を閉ざすであろう。即ち、先程出た所謂「大義」的思想や神道全域を内包する教学は実際の社務や生活とはかけ離れた言葉遊びに過ぎないのだ。

 それを虚しくも自己のイデオロギーや自分の信念と思い違いをしているだけの話である。かくの如く決め付けられては、拒絶反応を示す神職もあろうが、紛れもない事実であり、これこそ長い神社本庁依存体質が齎した結果なのである。

 然らば、我々神職が受け身の教学研究、教化活動から脱する為にすべき事は一つしかない。それは能動的に社務と向き合い、生活と向き合い、社会と向き合いながら、地道なコミュニケーションを図り、一社の思想、一個人の思想を徐々に形成する事である。

 派手さはないが、個々にコミュニティを創造し、そこから生まれる様々な思想を抽象化し、普遍化するのである。お上が全ての神社に当てはまる「お言葉」を下さると期待するなどは共通意識を持たない現代に於いて言語両断の暴挙的怠慢である。なんだ、神職個人が考えて思想を持てという話かと早合点して頂いては困る。小生の着地点はあくまで本庁の解体である。

 本庁批判の話となると、世間を騒がせている「あの裁判」の話かと思われるかもしれないが、その件を取り上げて議論する気は毛頭ない。〇〇派が悪いやあの人さえ辞めればと狭い庁内で対立するなどは、何の意味もない不毛極まりないことであると良識ある神職であれば容易に理解出来よう。というよりも、もはやその次元に問題が生じないほどの危機的段階に来ていることに気付かなければならない。現行の本庁の在り方を糺すなどという生温い話をしたい者は他所でして頂きたい。

 この場で提示すべきイシューは、本庁を解体すべきか否かである。斯界にとって有益な「お言葉」を持ち得ない本庁を残す理由がないと声を大にして言うべきである。抑もこの日進月歩の加速的社会に於いて、一括で全国八万社の神社を管理出来るという了見違いの空想、錯覚を破壊せねばならないのだ。

 斯界に於ける洗脳とも呼ぶべき本庁崇拝の悪き伝統は、即座に見直されるべきである。なぜ、近年になって、本庁組織を脱退する神社が増えているのか神職一人一人がもっと真剣に考えなければいけない。

 もはや単なる派閥争いや利権争い、例えるならば、沈みゆく泥舟の中での座席争いのような矮小瑣末な問題ではなく、宗教界全体の根底を揺るがす大問題であると自覚せねばならない。

 真摯に社務に向き合えば、百年先、千年先に神社を残す方法を、我々の良心が教えてくれるはずであり、二万神職のそれぞれにその答えはあるはずである。無駄な事を長々と書いてしまったが、私は神社界の未来は明るいと信じている。

 故にこの拙論を書いたのだ。この拙文が多くの建設的批判に晒され、斯界覚醒のきっかけになることを切に願う。これまでの話を聞いた上で、それでも本庁の「お言葉」を聴きたい者があれば、その無機質でからっぽの身体とからっぽの神社でその時を俟つが良い。そのような「優等生」神主には我々とは違う道が待っているはずである。